昭和45年9月22日 朝の御理解 ■

御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」



 これは、取次ぎ者に対する、んー、ま、心得というか、心がけのようなもの教えておられるのだと思いますけれども。信心を頂く者は、教師であろうが、信者であろうが、やはり同じ心がけがいると、ね。今日はそういう意味でお話をさせて頂きたい。昔、もう大正時代でしょうか、こんな歌が流行ったですね。「■今日は別れかおなごれおしや 雨の十日も降ればよい」とういうのである。
 「今日は別れかおなごりおしや 雨の十日も降ればよい」自分の、言わば恋惜しい人が帰ると言うたら、帰したくない。それこそ、雨も十日も降ったら、また、逗留させられるのに、というような意味のもの歌でしょう。ね。えー、こういうことを申しますね。えー、よく私とこの婆が言うておった。
 えー、年寄り同士会いますと、別れる時に、あの、「会うた時が暇乞い」ちいうようなことは、会った時が暇乞いだと(?ね。)「昨日会うたばっかりだというのに、もう亡くならっしゃったげな。」というように、まー、人間の、いうなら、あー、儚さとでも言うね、えー、本当に会うた時が暇乞いである、先のことが分からん。いつか私達が、けれどこれは人間関係でも、そのくらいな気持ちで大事にする。本当に、「会うた時が暇乞い」といったような気持ちで大事にする。
 私は、信者に不同な扱いをすなということ、これは人間に不同の扱いをすなと、これは私共信心させて頂く者は皆、これは人間だけじゃない、事柄でもそうです。これはちょいとした事だからざっとよか、これは皆言っとるから、念を入れなきゃならないというのではなくて、その時その時を、やはり、不同の扱いをせずに、ね、いわゆる、神様の言うならば御事柄として扱わして頂くといったような心がけ。
 そういう心がけがね、いつもいるです、信心させて頂いた者は。私がこうやって毎朝皆さんにお話を聞いて頂く、その聞いて頂く、そのお話が、あー、「今日のお話が親先生の、いうならば、遺言にもなるのかもしれん。分からん。あれが最後の御理解だった。」と。あれが遺言のような御教えであったというような言う心がけを持って御理解を頂いたら、日々が、さらな、有難い、ね、また聞かるるからと、ね、なるほど、私が明日生きておればまた明日頂かれましょうけども、それは人間のことですから分からん。そういう気持ちで、私は、日常生活というものを大事にしていかなければならない。ね。
 えー、遠いところに旅行いたします時には、駅まで見送り行ったり、または埠頭まで見に行ったりして、なら船が出るまで、あの見送ると。だけではない。別れのテープを投げて、それこそ、つかの間に切れるそのテープでも握って離したくないような思いがする。ね。それはやはり、いうならば、会うた時が暇乞いだと、というようなものが案にあるから、これがいつまでの別れになるやら分からない。本当にお名残惜しい。ね。
 ちょっとそこまで旅行するでも、行きに見送りに参りますと、(?)と手を振って、その、親愛の情を表わす。「元気で帰ってらっしゃいよ。」と言うわけなのです。ね。そういうようなものがですね、そういうようなものが、だんだん私はできてくるようになるのが信心だと思うですね。何事にも信心になれよと。ね。
 昨日、15年ぶりにお参りをして来たという人があった。それを、お参りされて、いろいろお届けをされることを聞かせて頂いとりましたら、「娘婿さんが非常に、競輪とか、(けいてい?)なんかに行って、もう財産使い果たしてしまう。」と。それでその、「娘が、あー、里の方に帰ってきたい。」とこう言う。親子で。ね。
 けれども、「娘だけなら帰ってきてもよいけれども、その、婿になるとが帰って、来てもらっちゃ困る。もう別れらした方がいい。」っちいうような考え。ね。「だいたいいい人間ですけども、ただそういうその、悪い遊びをすることだけが困ったことだ。」とこう言う。で、よく聞かせて頂きよったら、その娘婿だけが、あー、その、好きかというと、実を言うと、その、私の娘も娘の時からもういろんな株を買うたり、あの株というが、あの、なんかね、相場というのがあるでしょ。
 あんなのを買うたり、そのやっぱり、その競輪やらマージャンやらが娘もする。「ならあんたそげんとは、夫婦で使うとるとじゃないの、そうですち言うわけなんです。夫婦で行くんだそうです。そればただ娘だけあんた家に寄せたっちゃ、寄せて今度はあんた方の財産まで娘にあんた競輪さん持って行くならどうするの。」ち。いや娘はかわいいけれども、娘婿はかわいくないわけなんですね。
 ま、そんなこと私言わせて頂いたんですけども、これはもう金光様にあんま長くご無礼しとるから、まあ言うなら御気付けでも頂きよっとじゃなかじゃろうかという気持ちもちょっと起きて、まー、お参りをしてきたと、そこの近所の方なんです。(?)そのことを神様にお願いさせて頂きよりましたらね、もう、この、秋草のもう枯れたところをですね、ね、秋草でも、こういきいきとしたり、花が咲いておる時には、ま、いきいきしてますけれども、あれが枯れてします。やはり冬が近づくと枯れるわけです。
 それで私は、あの、申しましたんですけどね、言うなら、ちょうど、その娘婿達の上にはね、もう、秋草と言うただけでも淋しい。これはどんなにいきいきしとってもですね、そういう例えば、あー、濡れ手で泡のつかみ取りのような、心、心の状態というのは、実に淋しい心なんですよ。ね。当たれば良し、当たらなかったら、もう、いっぺんにお終いになってしまうという、その、ようなものがその内容に中にありますから、実に淋しいこと。当たらなかったら、そのまま枯れてしまう。ね。
 それで私は、その、申しましたんですけどもね、「もう言うならば、冬がまじかという感じ。それで、なるほど、娘をこちらに呼ぶというようなことじゃなくて、もうしばらく、例えば娘をそう言って金を借りに来たり、または、こちらに帰りたいと言うても、やはり、突っ放しとくがいい。そして、冬を通らしたらいい。秋よりも、もっと厳しく、寒い、冷たい思いをさせるがいい。
 そして、一生懸命お願いをして、10年前はあんなに熱心に参って来よんなさったっちゃけん、一つ朝参りでも覚えたって、ちょ信心をなさったらどうですか、その子供達のために。必ず春が来ると。ね。必ず、この人だいたい人間も悪くないから、改心して本気働くことになったら、必ず春の、おー、春になるな。物が芽を吹くように、花が咲くように、実がだんだん実っていくおかげになる。
 人生のそういうところにおる人なんだ。だから今、(?)娘はかわいいけれども、娘婿は、あー、もう冷たくあしらうといったようなことではなくて、ね、言うならば、形の上においては、しばらく突っ放しておくということは、かわいそうなようにもあるけれども、それは、娘も娘婿も一緒に、一つ、冬の修行をさせたらいいでしょうね。えー、そして、春の芽だしが必ず来ることを信じて、花が咲くことを信じて、少し親心を持って信心をさせて頂かれたらどうですか。」と言うて、ま、話したことですけれどね。
 人間が落ちぶれておる時には、誰でも、見向こうともしない。むしろ、もうものでも言うてもろうたら困るように思う。これは私共でもそれを思いますね。本当に、一番難儀な時代に、親切にしてもろうておった人のことは忘れられません。ね。ね。ようにですね、私達がそこのところの分からせてもらう。ね。言うなら、(?)人であろうが、枯れていっておる、枯れかかっておる人であろうがです、ね、やはりそれを同じような思いで接する。
 私が、よう難儀な当時に、親切にしてもらった人のことを忘れられない。そして、(?)機会があったら、いつの場合でも、「御恩返しせないかん、御恩返しせないかん。」というふうに思うて、ま、何かという時にはまた聞けば、本当向こうから、向こうでびっくりされるやろ、「まだあげなんこと忘れて(もろなさらじゃなかったじゃろうか?。」)と、その、思うてもらうくらいに、こちらが思いもすりゃあ、させても頂く。ね。だから、信心になるということはね、何事にも信心になるということは、そういうことだと思うんです。
 見かけが良いから悪いからで、不同の扱いをするようなことがあっては尚更ならん。人間関係ではない、それは事柄の場合であっても同じことが言える。ね。そこでですね、皆さん、私の今日のその、あの、言うならポイントになるところですけれど。お互いがね、信心させて頂いて、その、神様をどう頂いておるかと。ね。または、あー、神様をどうして、言うならば、神様を、ま、キャッチするというかね、えー、うん、神様を頂くところですかね、言うならば、御祈念の時だけは、真剣に拍手して大祓いを挙げて、神様と、いわゆるピッタリするおかげを頂きたいと思うて一生懸命なる。ね。
 ところが、日常茶飯事の中には、神様を外してしまっておる。ね。ご神前に拝む時には神様を大事にしておるけれども、ね、私共がご神前を離れて、言わば、普段、様々な、言うなら、あー、ま、御用をさせて頂いておるわけですけどね、の時には、もう神様を外しておる。例えば、商売人であんならばです、な、何事にも信心にならせてもれえ、とりわけ、商売人にくださっておるようにね、「十銭の物は八銭で売れ」と、店の目先が損のようだけれども、と、いうような教えをくださっておるのにです、もう商売をする時には、すでに、もう利益のことだけしか考えてない。あるいは、これは十銭の物でも十一銭でも売れるなら、なお有難いというような考え方をしておる。ね。
 私はいつも思うんですよね、お風呂やら入らせて頂いたり、洗面所行ったり、お便所なんかに、例えばこりゃ、行ってからです、本当に下駄なら下駄が、便所の下駄がきれに、足で揃えたんじゃない、これは手で揃えたっじゃろうちいうほど、きれいに揃えてある時と、もう脱ぎ散らかしに、横縦になっておるような時があり。流される水も流してはいない。洗面所に行くと、もう使いっ放し。風呂行っても同じようなこと。ね。私は思うんですがね、例えば、部屋では、部屋のお掃除でもそうです。ね。
 ちょっと心がけてきちっと片付けておけば、いつ人が見えてもよいのに、もう今日はよかよかと言うごたる時に人が見る。さあ慌てんならん。(?)なもんです。片付けとる時にはこんな、散らかした時に人が来るようなことがあるでしょ。ね。「今日はお客さんが来るから、きれいにしとかんならん。」もう普通ん時にはよかよかというのは、(?)その事柄、そのものを不同の扱いをしておるのです。ね。ね。
 こうすることが信心だということが分かっておってもです、ちょっと便所の下駄でも、自分の手でちょっと揃えて上がるといったような、いわゆる心がけと言うかね、それが信心だと分かったら、それを行じていかなければいけん。ね。人が見よるところより見よらないところを大事にしていかなければいけない。(?録音不良です?)見ておる、言わば要領がいいとこ。
 要領ばっかり良うして、影では、言うならば、油を売っておるといったような頂き方では信心になる者の、言わば、不同の扱いをしておるわけである。ね。ですから、本当に、例えば誰が見よらんでもです、な、お水、一すくいの水を頂かせてもらうでも、なら、洗面させて頂くでも、お風呂頂かせて頂くでもです、誰が見よるから拝んで入るというじゃなくてです、本当に、拝んで入る、拝んで使う。その、拝んで入ったり、拝んで使ったりする、なら、そこに、風呂おけと、ならその、(?)とか、ね、または石鹸、んー、タオルにいたるまでですよ。
 私は本当に感謝を込めて使わせて頂いておるとするならば、上げって来る時に、それこそ、お礼の言いたい思いがです、そこにきちっと整頓させて頂かなければ上がって来られんのじゃなかろうかと私は思うけれど、それを要しない。ね。「ろくそな人は神様に近づけない。」と、昔から偉い先生方は言っておられます。ね。あん御神前もう、いっぱいもう、(?おさんば?)が右向き左向きしておる。
 (お花は?)いつど上げたじゃ分からん。そういうことでですね、神様をぴったり自分の心に頂くことはでけんです。ね。御神前に拝む時だけは、願わにゃんけん、(?)大祓いを挙げたり、拍手を打ったり、一生懸命拝みよるけれどもね、それではいかん。そん時だけではいかん。いわゆる、日頃に不同の扱いをしておる。これは不思議です。何事にも信心ならしてもろうてです、下駄一つ揃えさせて頂くでも、風呂へ入らせてもらうでも、洗面所に入らせて頂いても、一つのお掃除をさせて頂くでも、信心で実意丁寧にさせて頂くその心がです、いつも神様へ向こうとる。ね。
 神様へ向こうておるから、もう信心座ったら最後、もう私の、なら、朝の御祈念なんかは、もう拍手打つ暇がないくらいです、神様と交流が始まるのは。心を落ち着けて、拍手を打って、大祓いを挙げなければ、神様がここに来てくださらないような感じのするようなことではいけない。それは、物事、人、全てのことにです、不同の扱いをしておるからなのです。ね。
 これはだいたい十銭だけれども、ね、けれども、ね、信心させて頂く者は、本当に、一銭でも二銭でも安うして喜んでもらう、それが信心だと思うて、ね、ほらそこに神様に心を向けておるでしょう。ですから、そこでは二銭の損のようであっても、そういう信心になっておる心がけに免じて神様がおかげをくだるのですよ。もうその時には、一銭二銭じゃない、十倍も二十倍にもなってのおかげが受けられる、ということをです、ま、おかげを受けられるからするのじゃないけれども。ね。
 そうしなければおられない心をです、お互いが育てさせて頂かないけん。常日頃のいわゆる心がけ、信心は。ね。そこで、その心がけとしてです、(?)会うた時が暇げと、というような、心あらわということになるのです。ね。例えば、んなら、整頓なんかでもそうでうよね。例えば机(?)机の引出し中がきちっと整理してある。(?)乱れておる。いつお互いが死ぬるやら分からんのですから、「はあーこれはもう本当家じゃ、ろくそな人じゃったなあ。」と言われちゃならん。
 これはいつでも整頓しとかにゃいけん。ま、言われちゃならんから、そう整頓するその心が信心なのである。神様へ心を打ち向けることなんです。ね。ですから、信心させて頂いて、心がけを、信心の心がけをだんだん頂いていくと、私は、やはり、整頓好きになるのじゃないか、きれい好きになるのじゃないだろうか。ね。または、今申しますように、人間関係の場合でもです、会うた時が暇乞いというような心がけで人に接することによってです、人を、ね、例えば見下げたり、軽く見たりするようなこともなくなるでしょう。 ただ自分の好ましい人、自分の好きな人だけは大事にする。「今日は別れかおなごりおしや 雨の十日も降ればよい」というように、情を込めてです、ね、「まあよかじゃんの、まあ一日二日でんおんなさい。」ち。「(?)帰るのにもうこげん雨も降るとにどうして帰んの、まあ一時おんない。」ちいうごたる、いわゆる気持ちなんです。そういう気持ちが誰彼の上にでも使えれる私にならにゃいけん。ね。
 そういう小さいところに心を向けるということは、そういう小さいことにでも、信心になっておるということですから、御神前に例えば出らせて頂いていよいよ神様に相対する時、向かわせて頂く時にです、ね、神様が、それこそ、拍手も打たん前にもう自分の心に通うてきてくださっておる。いかに信心が拝む時だけじゃいかん、参っとる時だけじゃいかんということが分かりますよね。
 今日の御理解から私はそのようなものを、感じた。これは、まあ言うならば、お道の取次ぎ者に対する心がけでしょうけども、お道の取次ぎ者だけじゃない、お道の信心させて頂くもんの心がけとして、もちろん、人を不同な扱いをする、人だけではない、物でも事柄でも。(?)だと言えば落ちぶれて、普通の人は、もう話し掛けもしないような、むしろそういう人にです、親切を施しておくというようなおかげ(?)、その人がいつまで貧乏するということではない。冬を通り越して、春が来る(?)にも時期が来る時がある。 その時にです、ね、「あん時のことは、忘れられん。」と言ったような思いを、相手からそういう念と言うか、そういう思いを送られるだけも、こちらが助かっていけれる元ができていくのです。ね。本当に、言うなら、こうやってだんだんおかげ頂いておるけれど、皆ちやほや言うてくるけれども、私共が貧乏しよる時にはもうそれこそ、唾も引っかけんごたるふうな態度を取られておったと例えばいうようなことがあるとするなら、それは、ま、普通で言うならね、ね、もうそこで、何ですか、人間を見られると言うですか、やっぱりその、もうそれだけのこと。
 けれども、良い私は念でも相手から送られる。本当に、ああいう難儀な時に、人を相手にもしてくれなかった時分にです、親切にしてもろうておったことだけは忘れられん。
いつかは恩を返さしてもらわにゃ。」っと、例えば思う人が自分の周囲におるとしてごらんなさい、その思い、その念というだけでも、こちらが有難い念の中に、ね、思いの中に過ごすことができるだけでも実を言うたら、有難いのです。ね。
 ですから、本当に私共が、不同な扱いをしてはならん。それは、人だけではない、物だけではない、事柄だけではない、もう全てのことに、何事にも信心にならせて頂いて、小さい事柄の中にもです、むしろその小さい事柄の中にです、心を込めてさせて頂いてごらんなさい。洗面させて頂く、お風呂へ入らせて頂く、お便所へ使わせて頂く、ね。
 といったようなことにも、信心でそれを成してごらんなさい。もうその信心に、その心が神様へ向こうておるのですから、ね、いわゆる、御神前に座らせて頂いたら、もうその場で、神様ともうずっと通うておるようなもんだから、ね。それを日頃は神様の心とは裏腹なこと、ね、そして、御神前だけ座った時に、「こちらを向いてください、こちらを向いてください。」と言うてもです、それはなかなか(?)とこちらを向いてくださらない。
 そこに時間がかかる。ね。そういうような、あー、信心させて頂くもんの心がけ。皆さん方へこうやって(とかして?)頂くことを、ね、「今日のあれが親先生の暇乞い、言わば、あー、遺言になるのかも分からん。」と思うたら、頂き方もまた変わってくる。言うなら、私としてもそうです。これはもう私の遺言だというような思いで、真剣に聞いてもらうことになったら、皆さんにもやっぱり訴えていくものが違うだろうと。
 頂く者、または、あー、それを与える者がです、そういう、いわゆる心がけと。信心させて頂く者はそういうところに一つ、特に心を使わせて頂いて、今日の場合は特にです、そういう心がけて、(?)歌の意味の中から、私はこれに今朝から頂いたことですけども、「今日は別れかおなごりおしや 雨の十日も降ればよい」と。会うた時が暇げ、ね。そういうような、私は心がけを、いつも外さんように、忘れてはならない。
 そこから、しみじみとした神様が、ね、伝わってきてくださる。しみじみとして神様を自分の心に頂き止めておくことができる。さあ、という時に、言わば、願いがそのままスムーズにです、聞いてくださるような気がいたします。また事実、そうであります。どうぞそういうつもりで、全てのことに不同の扱いをしない心がけが信心させて頂く者には大事じゃないでしょうかね。どうぞ。